北野天満宮 京都府京都市上京区 |
昨日の仁和寺から嵐電を利用し、北野天満宮に参拝へやってきました。
学問の神様である、菅原道真公が祭られており、福岡の太宰府天満宮とともに
天神信仰の中心的な存在です。
学問の神様と言うことで、境内は修学旅行生だらけ・・・
拝殿の前には参拝の行列ができる始末(笑)
他力本願じゃ、成績UPなんてしないからね
Wikipediaより
延喜
3年(903年
)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府
で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟り
だとする噂が広まり、御霊信仰
と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷
は道真の左遷
を撤回して官位
を復し、正二位
を贈った。天慶
5年(942年
)、右京七条に住む多治比文子
(たじひのあやこ)という少女に託宣
があり、5年後にも近江国
の神官
の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦
元年6月9日
(947年
)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔
(時平
の甥であるが、父の忠平
が菅原氏
と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
永延
元年(987年
)に初めて勅祭
が行われ、一条天皇
より「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦
4年(993年
)には正一位
・右大臣
・太政大臣
が追贈された。以降も朝廷
から厚い崇敬を受け、二十二社
の一社ともなった。
中世
になっても菅原氏
・藤原氏
のみならず足利将軍家
などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所
としていた麹
座
の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安
元年(1444年
)に室町幕府軍
の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動
)。
天正
15年(1587年
)10月1日、境内において豊臣秀吉
による北野大茶湯
が催行された。境内西側に史跡「御土居
」がある。
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋
などで当社の分霊が祀られた。
1871年
(明治
4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名する。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族
であり、かつ勅許
が必要であったためである。
北野天満宮 一の鳥居 大きく立派な鳥居ですね。
中門(三光門) 先ほどの一の鳥居をくぐり、参道を数分
歩くと見えてきます。絢爛豪華な門ですね。
※重要文化財
拝殿 学生が一杯並んでます(笑)
朱色の瓦や、入母屋部分の朱色の格子があでやか!
※国宝
拝殿から続きで建設されている本殿。
慶長12年(1607年)の建立。入母屋造の本殿と、
同じく入母屋造の拝殿の間を「石の間」で接続して
1棟とする、権現造社殿である。当神社の場合は拝
殿の左右に「楽の間」が接続して複雑な屋根構成と
なる。屋根はすべて檜皮葺き。本殿、石の間、拝殿、
楽の間を合わせて1棟としている。
※国宝
北野天満宮を参拝後、上七軒長屋を見学し、西陣の町並みをみながら、二条城へ徒歩で向かいました。
その途中、小さな神社を発見・・・何やら不思議な☆マーク 陰陽道・・・
まるっきりノーチェックでしたが、ここがあの安部晴明が祭られている晴明神社だったんですね。
参拝者は、ほとんどが若い方ばかりでちょっと不思議な感じの神社でした!!
1005年
に晴明が亡くなると、時の一条天皇
は晴明の遺業を
賛え、晴明は稲荷神
の生まれ変わりであるとして、1007年
、
その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当地の社地は広
大なものであったが、戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより
次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となった。幕末
以降、
氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、1950年
に
は堀川通に面するように境内地が拡張された。
平成
になると、漫画化・映画化もされた夢枕獏
の小説のヒット
により、安倍晴明のブームが起こり、全国から参拝者が訪れる
ようになった。晴明歿後千年となる2005年
には安倍晴明千年祭
が行われた。
京都初日はこのあと目的地の二条城へ16時10分くらいに到着したのですが・・・なんと拝観
時間は16時まで 泣く泣く京都駅まで地下鉄を乗り継ぎ向かい、近鉄京都ホテルへ向
かい、部屋で飲んだくれて就寝しました
翌日は朝6時前から行動を開始し、超ハードな1日を過ごしました
その模様はまた明日UPします。明日は東寺からスタートです!
でわ、明日もお付き合いくださいね
See you